2011年2月21日月曜日

芸術が高尚である必要はない

 

以下は、twitterにアップする予定のもの。

芸術を特別な意識を持つような人がいるみたいなので、話をしようと思っている。

創作物の評価に「芸術性」といった曖昧な判断基準は当てにならない。あるのは「作品に共感できるか」「作品に奥深さがあるか」といったおもしろさだろう。単に小難しい描写・演出だけで「芸術性がある」なんて馬鹿馬鹿しい基準だ。

芸術性にある種の特権みたいなものを求めるなら、それこそ馬鹿な話だ。過去の芸術作品の多くで、いかに苦悩などドロドロしたものから生まれたか。みんなに認められる作品は、苦悩し、努力を重ね、想いを込め、魂を込めたものを作品から感じるからこそ、芸術的とみなされる。

ストーリー性なんて、どれだけ体験し、作品を視聴し、物語作りを数こなして身につくものだ。ストーリーのあるべき評価も「作品に共感できるか・奥深さがあるか」だ。調べ・悩み、自分の中の真理を伝える、魂のこもった作品には、言葉の奥深さがあり、共感を生む。

作品の評価は、見る・聞く人によって違ってくる。だから、自分の都合のいいよう(恣意的)に解釈することだってできる。「芸術性の有無」「ストーリー性の有無」って具体的に何だという話になる。

作品を評価する際に「芸術性の有無」「ストーリー性の有無」ほど、曖昧な判断基準はない。共感・奥深さに、人々はおもしろさを感じ、評価する。だから本質的には「おもしろさ」こそが大切だ。

作品に対して、具体的なおもしろさも語れず「芸術性」「ストーリー性」だけで語る人は当てにならないし、作品を語る資格もないだろう。その作品にどのような迫力があったのか?どのように心をときめかされたか?

逆に、たくさん消費される音楽・マンガ・ドラマ・アニメなどの中に、心を揺り動かされたものがあれば、それは芸術的と評価されてもいいのだと思う。芸術とは、必ずしも高尚である必要はないんだ。

そして、「芸術性」「ストーリー性」で創作物を規制しようとしている人がいる。その人達は、本当に「芸術性」「ストーリー性」がわかっているのか、疑問を感じてしまう。作品の向こうに何かを感じたことがあるのか、問いたいくらいだ。

 

 

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